HONDA S2000
 ターボやスーパーチャージャーを使用しない NAエンジンで250馬力/9000回転という高回転高出力エンジンが魅力的。グレードは1種類しかなく、ベース価格が338万円。その他諸々のオプションを付けると400万近くなる。オープン2シーターだからこれ1台しか持ってないと日常的にはかなり不便。でも欲しい!! 何しろホンダの正統スポーツカーSシリーズの後継車ですからね。

DAX HONDA ST50 TypeV (1973-1985)
 ぼくとホンダの付き合いは、このダックスホンダから始まった。高校1年の時に友人から4万2000円で購入。その後12年間で約3万キロを走行した。
 当時友人の家で飼っていたダックスフンドの名前をもらってブラッキーと命名。以後、ぼくのファーストマシンには、代々ブラッキーの名が冠せられることになる。
 燃料タンクは満タンでわずか2.5リッターだが、スーパーカブ から流用されたエンジンはリッター当たり50kmという高燃費を誇った。
 この写真は、高校2年の真冬に、友人と福島県の裏磐梯高原まで50cc3台&70cc1台の原付ばかり4台でツーリングをしたときのもの。片道280km。郡山から猪苗代湖へ向かう国道49号線の長い登り坂では、ギヤを2速まで落とし時速20kmであえぎながら登った。


HONDA 1300 Coupe7 S (1976-1978)
 浪人時代に普通免許を取得し(いいんかい!)、父に30万円で買ってもらった中古車。空冷エンジンで、なおかつ当時としては少数派だったFF(前輪駆動)を採用した異色の車だった。ブラッキーII世と命名。
 しかし何が素晴らしいといって、これは本田宗一郎の直接の息がかかった純血ホンダマシンなのである。何しろこの1970年式の Coupe7 は、ホンダが作った2代目の普通車なのだ(初代は同じ空冷エンジンを搭載するセダンタイプの HONDA 1300 77 と その高性能バージョン 1300 99)。だから他社の特許をかわすために、どこもかしこも特殊な構造をしていて、スピードメーターのケーブルを交換するだけなのに、ステアリングコラムを外してメーターコンソールをむき出しにし、さらに車体をジャッキアップして下からもぐりこまなければならないというメンテナンス性の悪さも特徴的だった。
 そして何より最悪なのがフロントが超ヘビーだったことだ。とにかくハンドルを切っても曲がらないのだ。当時ぼくはラリーに凝っていて、芸文社の「プレイドライブ」という雑誌が行っていたラリーゲームにほとんど毎月参加していたんだけど、何度峠から転落しそうになったことか。結局、最後は雨の中、ラリーの帰りにガードレールに激突してしまい、修理代が出せなくて、そのまま購入後1年半で廃車にしてしまった。
 それにしてもこの流線形デザインの美しさはどうだろう! その乗りにくさも含めて非常に個性的で、他のどの車にもない魅力があった。今一度この車をドライブできるなら、当時よりもうまく運転できる自信があるんだけどなぁ。
 この写真は海外旅行に行く父を送りに羽田空港へ行ったときのもの。この後、ボンネットを黒く塗ってボディにストライプを入れ、シビエの大型フォグランプを付けて外観をラリー車モドキにドレスアップしたんだけど、残念ながら Coupe7 の写真はこれ1枚きりしかない。


HONDA CBX400 FOUR (1985-1988)
 弟が乗っていたマシンだが、弟が限定解除して CB750F を購入したため、15万円で売ってもらった。この写真は車検直後のためノーマルに戻されているが、弟が『バリバリ伝説』や『汚れた英雄』に感化されていたため、ヨシムラの集合管、ステアリングダンパー、スタビライザー、強化ブレーキホース、自作バックステップなどで峠仕様にチューンナップされていた。ブラッキーの名は CR-X が引き継いだため、こちらはキャティと命名。
 ぼくは原付免許でずっとダックスに乗っていて、中型免許を取得したばかりだったので、最初はそんな走り屋風マシンでトロトロと走っていたのだが、やがて弟に連れられて峠に行くようになり、サーキット走行会にも参加するようになって次第に目を三角にして走るようになる。
 また当時は編集の仕事をメインにしていたため、都内の移動にも毎日利用していたが、車体が軽くてハンドリングバランスも勝れていたため渋滞をスリ抜けて走るのにも最適なマシンだった。


HONDA CR-X 1.6 Si (1985-1995)
『スーパーマリオブラザーズ』のヒットによってファミコンブームが到来した。そしてぼくにテレビゲーム関係の仕事が殺到しバブル状態になったときにキャッシュで購入した(小さい泡だなー・笑)。ブラッキーIII世と命名。
 クルマの世界では、ドリフトキング=ドリキンの愛称を持つ土屋圭市が、カローラレビンで峠を横向きになって駆け抜ける姿が評判になっていた。
 そしてぼくも「OPTION」や「CARBOY」といった走り屋雑誌を読んで次々とチューニングに金を注ぎ込んだ。上の写真は買って間もないまだノーマルだったころで、下の写真はチューニング後。サスペンション、ダンパー、ブレーキパッド(以上ホンダツインカム)、強化クラッチディスク(無限)、前後ストラットバー(カルドホンダ)、50セミスリックタイヤ(ADVAN HF-D)、ブリッドのバケットシート、サベルトの4点シートベルト、モモのステアリング、当時ホンダのディーラーに勤めていた弟が会社から持ってきたトラストのCIVIC用レーシングマフラー(エクゾーストパイプの長さが合わなかったので切断&溶接して弟が無理矢理くっつけた)などなど…。いやーハマりましたわ。峠と首都高にはしょっちゅう行ってたし。ホントはそんなことにハマっていた人たちは、ぼくより10歳以上若い人たちだったんだけどね。
 エンジンはよく回るし車体は軽いので、走るのは実に楽しかった。しかし、ボディ剛性の弱さは呆れるほどでしたね。ジムカーナ練習会に参加して、何度も左サイドターンの練習を繰り返したら右のドアがボディとこすれるようになってしまった。しかしそのあと右サイドターンの練習をしたら元に戻ったという…(笑)。あと首都高で、落ちていた角材に乗り上げてしまったら、その衝撃でスライド式サンルーフの滑車がガイドレールから外れてしまったこともありました。
 この車を買った当時は、同じホンダのプレリュードが女性の人気ナンバーワンの車で、この CR-X も街乗りでの注目度は非常に高かった。女の子に「かわい〜」とか言われたりして(笑)。ところが峠ブームが到来すると、一気に走り屋小僧の車という印象の方が強くなってくる。おまけにぼくもイイ歳をしてステッカーをベタベタ貼ってたため、ガールフレンドからは「そのステッカーを剥がさないと乗ってあげない」とまで言われたこともある。「あ、あ、あのなァ、この OPTION のステッカーを入手するのにどれだけ苦労したか知ってるのかァ!?」と言っても女にゃわからんのだよなァ…。
 この CR-X の10年間での走行距離は約7万km。仕事が忙しくて思ったより乗れなかったんだよなぁ。
 まだまだ乗りつくした気がしない可愛い車であったが、10年選手となって各部にガタが出はじめ、さらに乗り続けるには全塗装、クラッチのオーバーホール、各部シール材の交換、タイヤ交換などに相当の出費が必要となったため、車検が半年残っている時点で弟の友人に3万円で譲ってしまった。


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