プイッとスネながら「ねぎもんじゃ」をかきまぜる後輩の柴尾英令くん。
 なぜ彼がスネているかというと、前回、2月19日に決行された第1回もんじゃツアーin浅草に、彼をお誘いしなかったことが原因なのだった。ここへ来るまでぼくは全くそのことを知らなかったんだけど、何でも柴尾くんがホームページの日記にそのことを書き、それが発端となって「俺も呼ばれてないぞ」という人間たちが不満の狼煙をあげて盛り上がっていたというのである。うーむ、恐るべしネットワーク社会!!
 しかし、そもそもぼくに幹事をまかせたのが間違いだったのである。確かに学生時代には、ぼくはクラブの会計や副幹事長をやっていたから、宴会や合宿の予約はいつもやっていたし、そういうことに気配りをするマメさもあった。けどここ10年ほどは、そういうのはほとんど人まかせで「てきとうよろしく」でやってきているため、人間関係とか、席順とか、そういうことにすっかり無頓着になっているのである。
 ごめんよぉ、柴尾英令くん、霞流一くん、飯野文彦くん(順不同)!! というわけで、この日はずっと小さくなっていたぼくなのだった。
 因みに、その「もんじゃはぶんちょ事件」の発端となった柴尾くんの日記は、リンクページから、彼のホームページへ行って読むことができます(関連する内容は、1999年2月25日の項と、1999年3月27日の項にある)。

 そんな柴尾くんも、完全にこのテーブルのもんじゃ焼きを仕切ってやっと気持ちがおさまったようで、熱く焼けたヘラで手を叩かれるんじゃないかとビクビクしながら、ぼくもチビチビともんじゃを食べさせていただきました(笑)。



 左の画像は明太もちチーズもんじゃ。そしてそのお味はというと、水溶き小麦粉とソースと具が揃えばマズいわけがなくて美味しかったんだけど、具が多すぎて水溶き小麦粉はツナギの役割りを果たしているに過ぎないという本末転倒的もんじゃなのであった。要するに鉄板焼きに水溶き小麦粉がチョロッと入っているようなカンジね。これを「もんじゃ」かというとちょっと違う気がするが、全く別の食べ物と考えればかなりいける。このアンビバレンツな気持ち、おわかりいただけるだろうか。

 最後に、こし餡と缶詰の杏(あんず)が入ったクレープなるものを注文したが、これも、生地は水溶き小麦粉だけで作られており、本物のクレープ生地では必須の卵もベーキングパウダーも一切使われていないという、いわゆる「クレープ」とは全くの別物であった。ところが、これを店のお姉さんが焼くと、不思議な美味を醸し出すから驚いてしまう。要するに月島もんじゃは、人工的かつ計画的に創造された食文化。街に例えれば、山を切り開いて造成された“ニュータウン”なのである。
 そう考えると、店のお姉さんが、ちょっとぶっきらぼうだけど気のいい下町風のキャラクターをわざわざ演じている理由も理解できる。故郷を喪失した東京人や故郷を懐かしむ地方から来た人々にとって、月島もんじゃはレトロな下町を“疑似”体験できるテーマパークなのである。池袋のナムコナンジャタウンや新横浜ラーメン博物館と全く同じなわけね。
 一部の友人たちは、ぼくが月島もんじゃを嫌っていると思っているが、疑似体験であると思って楽しんでいる分にはまったくかまわないわけで、ぼくが問題視しているのは、月島がもんじゃの原点である」と本当に思い込んでいる人がたくさんいることなのである。それなのに、なぜ「それは違うだろう」と言う人が出てこないのか、それも不思議なんだけどね。
 少なくとも、ぼくが高校時代(1970年代中ごろ)に佃島や月島を訪れたときには、目につく場所にはもんじゃ屋など一軒もなかったことを書いておこう。いや、テレビなどで見ていると、戦後すぐのころからもんじゃ屋を経営していると言っている店もあったから、本当はあったのかもしれないけれど、その頃には、東京の城東エリアでは、どこの町にでもたくさんもんじゃ屋があったのであって、決して月島の専売特許ではなかったのである。
 いっそのこと、町屋(ミステリクラブの先輩の実家があり、その先輩も幼少の頃にはかなりもんじゃを食べまくったという)とか、鐘ケ淵(大学時代にミステリクラブの有志でもんじゃツアーをおこない、いまだに本物のもんじゃの味が残っていたことに感動した)とか、柴又(ぼくが子供のころには自転車で行ける範囲に10件以上のもんじゃ屋があった)など、あらゆる元・もんじゃタウンだった町々が、「我が街こそもんじゃの元祖である」とか言って名乗りをあげたら面白いのにね(笑)。


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